ある時、修行中の二人の雲水が雨で増水した川にたどり着きました。
岸辺には旅の女が難儀していたため、 雲水の一人が声をかけました。
「私どもが対岸まで担いで差し上げましょう」
雲水らは褌一つになり、女と衣鉢をそれぞれ担いで渡りました。
女は深く礼を述べて去り、 雲水らも再び衣鉢を正し、歩き始めました。
しばらくして衣鉢を担いだ雲水は心中に疑念を持ちました。
「我らは日頃厳しい修行のため色欲を避けているのに、 先刻の行為は如何なものか」
やがてその雲水は女を担いだ雲水に問いかけました。
「君は仏に仕える身でありながら、女と接したことを恥じないのか」
雲水は一言返しました。

「・・・なんだ、君はまだあの岸辺にいるのか・・・」

 

 

《 般若心経について 》


仏教のほとんどの宗派のみならず修験道や神道の一部でも読まれている程に仏教では一番中心的、重要な経典です。『大般若波羅蜜多経』及び『摩訶般若波羅蜜経』からの抜粋に『陀羅尼集経』に収録されている陀羅尼を末尾に付け加えたもので、主に「空」について述べられています。宗派によって般若心経の位置づけは異なりますが、禅宗では師の言葉を借りれば「心の設計図、心の見取り図」という見方をしているとのことです。

般若心経の原型は西暦2〜3世紀頃に成立したと推定されていますがよく分かっていません。漢訳についても玄奘三蔵法師以前に訳した僧侶はいましたが、実は定かではないようです。玄奘三蔵を始め、多くの僧侶が尊い経典を得るため遙か遠い天竺を目指し、恐らくかなり多くの者が命を落としたことでしょう。ましてや遣唐使たちが危険を冒して、更に中国からはるばる海を渡って日本まで持ち帰ったことを思えば、日々読経する経典がどれだけ尊いものか、私は読経の度に思います。

 

《 玄奘三蔵法師 》


仁寿2年(602年)洛陽近郊に生まれる。10歳のときに出家、玄奘と名づけられた。隋末の動乱のため各地を転々としつつ『涅槃経』と『摂大乗論』を学び20歳で具足戒を受ける。
玄奘は更なる仏典の研究のため、貞観3年(629年)国禁を犯して出国。天竺、ナーランダ寺で5年にわたり戒賢より唯識を学び、各地の仏跡を巡拝した後、貞観19年(645年)、657部もの経典を持ち帰った。インドでは、ヴァルダナ朝の王ハルシャの厚い崇敬と保護を受け進講もした。旅行記『大唐西域記』は当時のインドを伝える貴重な資料ともなっている。
貞観19年(645年)大慈恩寺の翻経院で太宗の勅命によって始まった玄奘の翻訳は、『大般若経』600巻等、76部1,347巻に及んだ。麟徳元年(664年)長安近郊において寂した。

中国や日本でも大変有名な物語「西遊記」でも三蔵法師として登場している。

( Wikipediaより抜粋、要約 )

「一念無限」
今この瞬間の心のあり方を感じ尽くせば、それは自他の差別を超え一つになり、その心は限りなく宇宙全体に広がれるのだと思います。 そして それこそが仏なのではないかと思います。

「前後際断」
私たちは日常「過ぎ去った、変えられない知識と経験」で「まだ来ていない、見知らぬ将来」に備えようとします。ところが私たちは「今」この瞬間だけのみを感じることができ、生きています。私たちは本当に五感のすべてを駆使して、「今」この瞬間を真剣に感じ尽くして生きているのでしょうか。

【 不動明王 】

不動明王のサンスクリット名は、「動かざる者」を意味する「Acalanatha(アチャラナータ)」。
つまり、菩提心が不動たることを意味し、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの異名の一つでもあります。

明王のサンスクリット名は、「明咒の王:Vidyaraja(ヴィドヤーラージャ)」で、
「明咒」とは、諸仏諸尊の威力を持つ真言を指します。

真言を唱えれば迷いや苦悩の暗闇から解き放たれます。
その真言が強力な仏が明王であり、中でも不動明王こそが最強とされています。

不動明王は、大日如来が人々の悪心を調伏するために忿怒の姿で現れたもので、
如来の命を受け、仏法を害するものに対し怒りをもって対決する使者です。

また、その威厳に満ちた容貌から、全ての災魔を屈服させると信じられ、
さらに難行苦行に立ち向かう修行者を守護すると信仰を集めています。


これから坐禅を志そうと考えている方に幾つか備忘録をまとめました。
これはあくまで私個人の経験に基づいたものですので、参考程度とお考えください。

「経」とは「経線・緯線」でも用いられているように「縦」を意味します。つまり、どの時代をも貫き通す、縦糸のような真理を指します。一方の「緯」は「異」です。その時代ごとの森羅万象を指します。先人達が命に替えて持ち帰ってきたこの尊い仏教の真理に祈りを込めて読経したいと思います。

 

禅宗の名僧たち

【 一休 宗純 】 1394年 - 1481年

臨済宗の僧侶。京都の生まれで後小松天皇の落胤という説もある。早くから文才にも優れていた。1420年のある夜、カラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟したが、師家からの印可状は辞退した。応仁の乱後、天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、再興に尽力した。風狂でありながら天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。

【 沢庵 宗彭 】 1573年 - 1646年

臨済宗の僧侶。但馬国出石の生まれ。10歳で出家。1607年には大徳寺首座となり兼任で南宗寺にも住持した。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持となるが、名利を嫌い3日で去った。1629年紫衣事件によって出羽国上山に流罪になるも、柳生宗矩の尽力により、家光が3代将軍になった際の大赦で罪を許されている。以後、家光は沢庵に深く帰依する。柳生宗矩に贈った著書『不動智神妙録』は禅僧が記した異色の武芸書として著名である。沢庵は書画・詩文・茶道にも通じ、多くの墨跡を残している。死の直前沢庵は「夢」の一字を大書し辞世の挨拶としたのは有名。沢庵漬けの考案者と言われている。

【 白隠 慧鶴 】 1686年 - 1769年

臨済宗中興の祖。駿河国原宿の長沢家三男として生まれた。15歳で出家して諸国を行脚。24歳で開悟するも、厳しい修行の末に禅病となる。しかし白幽子の内観法を授かって回復し、信濃(長野県)飯山の正受老人(道鏡慧端)の厳しい指導を受けて、悟りを完成させた。また公案を再編し体系化した。公案の中でも「隻手音声」は有名。また、白隠禅師の教えは「白隠禅師和讃」に集約されている。白隠禅師は禅僧のみならず、一般大衆にも分かりやすく教えを広めた事でも知られている。

【 良寛 大愚 】 1758年 - 1831年

曹洞宗の僧侶。越後国出雲崎に名主の長男として生まれ、18歳のとき出家。 出家後、玉島の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な格言によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。歌と詩と書に優れていて、多くの作品を残し、多くの民衆から愛されたことでよく知られている。