Vol.3 ワシントン州
〜対岸から見た第二次世界大戦〜

シアトルのダウンタウン、遠くに見えるのが活火山のレーニア山

 日本にいると、なかなか公平な戦争体験を聞くことは難しい。なぜなら日本で存命中の戦争体験者は、全て敗戦しか体験していないからだ。しかもそれに輪をかけてGHQが施した「民主教育」が功を奏して、戦争に目を向けること自体が即、「右翼」と見なされることしばしば。私は幼年時から何故日本で戦争に興味を持つと白眼視されるのかいつも不満に思っていた。

 私は湾岸戦争当時アメリカにいたが、毎日テレビにくぎ付けだったのを覚えている。そして終戦後、功労者には勲章と故郷へ錦を飾った凱旋パレード、戦死者にはやはり町を挙げての追悼パレードと、日本ではおよそみる事のできないものを見て衝撃を受けた。そんな場合でも街頭で気違いのように反戦を叫ぶ人たちがいたのも印象的だった。もっとも不景気のせいかアメリカ人の多くは「もういい加減、自国に関係ない戦争の為に税金を使うのはやめようよ」といった気分が蔓延していたように感じた。

 そんな時には決まって、山奥からベトナム戦争で心の傷を負った元兵士がやってきて、反戦運動に参加する。オレゴン州やワシントン州では、山間部に行くとランボー顔負けのおじさんたちがトレーラーハウスでひっそりと暮らしていたのを何度も見かけた。日本だったら終戦から10数年というと昭和30年半ばごろになるが、そんな折に山間部で、いい年をした男が社会と断絶した生活をしていたら、なんで復興の為に働かないのかと、それこそ非難の的である。

 日本では国の存亡を賭けて戦い、武器や食料が不足していた、地獄のような戦場から帰還した兵士らが今の日本を作り上げた。上級士官には日露戦争を経験した者もいた。近代に行われた三度の大戦は、いずれも日本の国力を凌駕する敵と対戦し、二度勝利した。ちなみに近代において、自国よりも大きい国に二度も勝利した国は極めてまれだ。アメリカには国の存亡に大して関係のない、物量が豊富な戦場で負けて現実逃避する兵士が多い。精神文化の違いだろうか。意外に日本人がたくましいと感じた。

 ワシントン州はアメリカ最北西部、太平洋とカナダ国境に位置する、針葉樹森が豊かな州だ。ワシントン州最大の都市、シアトルには数回行った。スペースニードルと呼ばれる未来的なデザインのタワーや海に面したフリーマーケットがあり、また、ブルース・リーが過ごした町としても知られている。彼の墓もそこにある。それ以外にもオリンピック半島の大半を占めるオリンピック国立公園があったり、活火山であるマウントレーニア(森永乳業のコーヒーブランドにもなっている)などがあり、オレゴンと兄弟州だと言うのもうなずける。特にオリンピック国立公園の美しさは私を魅了した。アメリカの国立公園の中ではベスト3に入る。派手な観光名所があるわけではないが、私の心に残る光明風靡な景色だ。


 私にとってシアトルには忘れがたい思い出がある。 ひとつは笑い話、一つは戦争の話だ。

オリンピック国立公園にあるクレセント湖

有名なスペースニードルタワー

 前に住んでいたカンザスから友人がやって来たので私は彼をシアトルに連れて行った。夏場で暑かったので、一番涼しいよそ行きの服、アメリカ海軍の白シャツに白スラックスという派手な格好で出かけた。港湾周遊ツアーに参加するためにボートの船着場に行き遊覧船を待っていると、ツアーを終えた人がぞろぞろと船から上がってきて、すれ違った。

 が、一組の老夫婦が私の前に立ち止まり、いきなり老人が感動の面持ちで私の手を取った。そしていわく「おお、彼女は元気かね?まだよく働いているのか?」彼女?誰のことだろうと考え、恐らく人違いだろうと思ったが、まあ適当に元気とでもいっておけばいいかなと軽く考え、「ええ、彼女は非常に元気で、いつも美しいですよ、サー」と余計なことまで言うと、「そうだろう、そうだよなあ、彼女はレディーの中では一番の美人じゃ!あれより美しい女はない。原子力エンジンだってまだまだがんばれるんじゃ。」私はサーッと血の気が引いて、背中に冷たい汗を感じた。

 私のシャツには大のお気に入りの「U.S.S ENTERPRISE」というワッペンが付けてあり、実物と仕様が似ていなくもない。英語では船を指示代名詞で指す場合「She」になる。エンタープライズという名前の重みは日本で言う「戦艦大和」と同じである。第2次世界大戦の最優秀艦であり、世界初の原子力空母であり、「スタートレック」に出てくるスターシップでもある。彼は私を「エンタープライズ」のクルーと勘違いしたのである。すでに何十人ものギャラリーが注目していて、言い訳ができそうな雰囲気ではなかった。子供たちは「すげえ、エンタープライズのクルーだってよ。」と興奮気味に指さし、彼らは私を完全に誤解してしまった。

 後に引けなくなった私は老人に「失礼ですが、サー。エンタープライズではどちらの所属でしたか?」と慎重に質問した。彼は機関関係部署で下士官だった。「私は艦橋勤務で航空管制の補助を勤めております。サー」と知っている英語の専門用語で一番安全に言えそうな単語を持ち出し、最後にサーを付けた。幸いにも観光客もぞろぞろ動き出したので、彼もそれに気づき「君のような優秀なクルーが彼女と働いているので安心だよ。ありがとう。」と言った。私も調子に乗って「光栄であります。サー。よいご旅行をお楽しみください。それでは失礼いたします。」と挨拶し、我ながらみごとな海軍式の敬礼を交わし(生まれて初めて本物の軍人と敬礼をしてしまった!)、きっちりした足さばきで回れ右をして遊覧船に向かった。人種のるつぼ、アメリカならではのハプニングだった。

 遊覧船では緊張が解けて、人目に付かぬようにぐったりとなった。観光どころではなかった。事態の深刻さに気付かない友人(日本人)はまじめに「へえ、君は軍人だったのか。」と無知無邪気に感心した。米国にて軍服は気楽に着ずべからず、である。

 もう一つは別の日の出来事・・・

 シアトル郊外にはボーイング社の工場があり、隣接してボーイング航空博物館が公開されている。私はよくそこに行ったものだが、ある日、シアトルからの帰り、例によって博物館に足を伸ばすといつもの閑静な工場地帯と異なり、車と人でごったがえしていた。近くの人に話を聞くと、驚くことにこの日はかの超重爆撃機、ボーイングB-29スーパーフォートレス完成50周年記念式典だということだった。

 これは是が非でも見なければと思い、ゲートに向かったが、あいにく当日はOBオンリーとのこと。確かに老人が非常に多かった。だが私はゲートの守衛をしていた兵士に「私は観光客だが、明日帰国しなければならない。どうしても見学したいのだが。」とすがるように頼み込むと、意外にもあっさりとOKしてくれて、ビジターバッジを付けて中に入った。

 中にはB-17、B-24、B-25、B-26、B-29が並んでいただけでなく、P-51Dムスタング、F6Fヘルキャット、など往年のレシプロ戦闘機に混じって、なんと「ゼロ戦」まで陳列してあった。音速ですっとんで行き、やや血走った目を皿のようにしてチェックしたが、どうやらレストアした本物の旧日本海軍の零式艦上戦闘機の様子。大戦前期仕様で明灰白色の21型のようだった。B-29は、自分が想像した大きさよりも若干小ぶりに感じられたが、それでもこんなのが3,400機もの大群で東京に来襲していたのかと思うと、昔の人の苦労が偲ばれた。機体はこの日のために爆弾倉に至るまでピカピカに磨き抜かれていて、すぐに飛ばせることがよく分かった。

 ともあれしばらく夢気分で逍遥していたが、ホットドッグスタンドで一人の小柄な老人と知り合った。今では日本でも名の知れたシアトルマリナーズの青い野球帽(当時は何故か今よりも青みがかかった色だった)をかぶった、ごく普通の老人だったのが印象的だった。彼は19歳のときB-17の航空機関士として太平洋戦線に配属され、何度も日本海軍の艦艇に対して爆撃を行ったということだった。聞いていて妙な気がした。いつも攻撃された側の話しか知らないのに、ここでは攻撃した側の話が聞けるとは。私は彼の話を今でも鮮烈に記憶している。話の一部始終を紹介したい。

ボーイング社航空博物館 変わり種飛行機からブラックバードまで、なんでもある

ボーイングB-17フライングフォートレス

 「あなたは日本人と戦っていて、日本人を憎いと思いましたか。」
 「いいや、憎くなんかないよ。何で戦争なんかに参加したんだろうか。今考えると不思議だよね。憎くもないのに殺し合いをするんだから。戦争なんか絶対にいけないのは分かっているのに参加してしまうんだからね。でも本当に、本当に戦争なんかしてはいけないよ。」
 「それじゃ、日本人は劣った人種だと思ってました?」
 「冗談はやめてくれよ。ゼロ戦に怯えていた私たちがそんな気分になれると思うのかい?イエローモンキーだとかジャップだとか言うプロパガンダは弾の当たらない、安全なところで人に指図している、エラい軍人や政治家たちが勝手に作ってまき散らしていただけと、みんな思っていたよ。わしらは日本人を立派に戦っているなあと思っていたよ。同じ人間同士が戦っていたとね。」

 「日本軍と遭遇したことはありますか。」
 「たくさん出撃したが、2回だけゼロファイターに攻撃されたよ。1回目は爆撃後で機体が軽かったから何とか逃げ切ったけど、それでも何機か落とされた。すぐ近くで炎上しながら墜落していく僚機が見えた。初めて見た日本人だった。こんなに大きな爆撃機を果敢に攻撃する日本人は、やはりサムライの子孫に恥じない、凄い民族だったんだと思い知らされ、本当に怖くなった。

 もう1回はね、わしの戦友が死んだ。その日、日本軍の輸送船団を攻撃するために出撃したんだが、すごい数のゼロ戦がわしらの編隊に襲い掛かってきた。その時、わしの親友は銃撃手としてわしのすぐそばで機関銃を握っていた。わしは4つあるエンジンを的確に動かすのが仕事だった。空戦が始まると、エンジンを全開にして、大きな機体を左右に振り、上げ下げをして何とかゼロファイターから逃げようとしたけど、防弾版に銃弾ががんがんと当たったり、ぼこぼこと主翼に穴を開けたりしていたのを見ると、本当に怖かった。背後の親友は必死に機関銃を撃っていたようだけど、こっちもB-17のエンジンが1個やられて、もう1個も動いたり動かなかったりしてたから、そりゃもう必死でエンジンを制御していて、他人の事なんかに気を配るひまもなかった。恐怖の涙と排気ガスとオイルまみれでなんとか穴だらけのB-17を基地に着陸させて、後ろの親友に『おい、助かったぞ!』って言ったけど、彼は胸を撃たれて機関銃にもたれたまま死んでいたんだよ。すぐ後ろにいたのに何で気づかなかったのかなあ。小学校からクルー養成校までずっと一緒の親友だったから、あの時は悲しかったなあ。」

レストアしたと思われる、恐らく本物の零式艦上戦闘機21型

本物のボーイングB-29スーパーフォートレスが飛び立つ瞬間

 後にも先にも人前で号泣したのはこの時だけである。私の母方の祖父も輸送船でサイパン島に行く途中に爆撃機にて撃沈されたことを知っている。しかし、もし仮にこの老人の爆撃によって私の祖父が殺されたとしても、私は特定の個人、国に対する憎しみより、すべての戦争に対する憎しみを強く感じた。
 「わしの孫も君ぐらいの年だ。わしらが君ぐらいの時は、戦争をしていたが、君たちの世代では仲のよい関係ができたのだから、わしの親友も浮かばれると思う。」そう言うと、泣きやまぬ私を諭し、「ほら、もうすぐショーが始まるよ。」と言ってくれた。終始穏やかに語っていた為か、心に強く焼き付いた。名前を聞かなかったことを、今でも後悔している。
 気を取り直して、滑走路に目をやった。次々に離陸する巨大な爆撃機たち、軽快な戦闘機群が舞い上がると、一斉に歓声が上がった。戦闘機同士の模擬空中戦、恐らく生涯に二度と見ることはないだろうB-29対ゼロ戦のフライトショーを見て多少は落ち着いた。ここにいる日本人は恐らく私一人だったと思う。本来は千載一遇のチャンスに堪能したのだろうが、冷めた目で見ていた。私は幼い頃からセピア色の写真でしか見たことのない名機たちが今まさに目の前で乱舞する様を悄然として見上げていたが、老人は自分が乗っていたB-17に気を引かれたようだった。B-29がキーンというターボ音を響かせながら滑走路を通過して、その後にB-17が通過したときに、やや興奮気味につぶやいた、彼が言った言葉が今でも忘れられない。「ああ、ごらん。もう一人のレディーだよ。昔、私はあれに乗って太平洋で戦ったんだ。今でも爆撃したときやゼロに襲われた時、親友が死んだ時のことを良く思い出すんだよ。」 B-29の尾翼  ピカピカに磨かれていた

特撮ではありません。どちらも本物です。

 私はいつも思う。今の日本の繁栄下には、何百万人もの死が人柱として埋まっているかを実感している人が、一体何人いるだろうかと。過日、私は妻と戦時中の少年の生き様を辿ったドラマを見たが、その中で主人公の家族が空襲で逃げ惑う中、死に物狂いで家財のミシンを運び出そうとしている、その意味が彼女には理解できなかった。ものの価値観が全く異なりすぎて、全く理解不能なのだ。ちなみに彼女の祖母は戦時中、妻と同じ年で、東京大空襲に遭っている。

 1000人が1000人とも戦争についての理解を持つ必要はないし、不可能である。そんな教育は無駄である。だが、1000に1人ぐらいは詳細に、次の世代に前の世代に起こったことを伝える使命があると思う。そんな人は自分とその前後の時間を知るだけでは許されない。私は歴史を知ることとは、己の卑小な生存時間と行動範囲、所属文化を超えた理解を持つことだと信じて止まない。
(ワシントン州 完)