Vol.1 アリゾナ州
〜インディアンたちの心の叫び〜

 

 私は留学中に合計4回アリゾナ州を訪れている。いずれもグランドキャニオン国立公園とその周辺を周遊した。もっとも最初の1回以外は友人が是非ともと言うので行ったようなものだ。州都のフェニックスは1回通過した。米国にて最初の旅行もグランドキャニオンだった。アリゾナ州と言えば荒涼とした、世紀末的な景観のある場所というイメージがあったが、実際に来てみてまさにその通りだった。赤茶けた岩がごろごろしている大地が広がり、緑がほとんどない、奇特な世界だった。グランドキャニオン以外にも、その近くには巨大隕石孔があり、ナヴァホインディアン居留地の中にはモニュメントヴァレーがある。特にモニュメントヴァレーの場所が意外にわかりにくい理由は、そこがインディアンたちの聖地で、あまり世間に宣伝してほしくないからだそうだ。確かに有名な割に場所は知られていない。また、インディアンたちが積極的な解放を希望しない観光地は決まって交通の便が悪く、自動車でないと行けないところも多い。このモニュメントヴァレーもユタ州との州境にあるが、基本的には自動車でないと行けない。米政府はインディアン達に対する政策は冷淡に感じるが、こんな気遣いだけは行き届いている。もしかしたら目障りなだけかも知れない。グランドキャニオンからはおおむね250キロぐらいの所にある。モニュメントヴァレーにはナヴァホたちのツアーガイドによる周遊もある。モニュメントバレーにも行ったものの、私は気が進まなかったのでツアーには行かなかった。

 

 

 グランドキャニオン国立公園はアリゾナ州の北部に位置しており、公園の大きさは東西に約200キロ、南北で最大の所は56キロ以上にも及ぶ。ちなみに日本のスケールに当てはめると、関東平野なら銚子市東端の犬吠崎から東京都西端の雲取山までが概ね200キロ、横浜市から埼玉県と群馬県の県境までがだいたい50キロ以上になる。イメージして頂けただろうか。実際に目にしてみるとその巨大さに我が目を疑うが、それでも自動車で見ることができるグランドキャニオンは、その中のたった30キロ程度に過ぎない。設備の整った場所から谷に降りると、谷が間近にそそり立っており圧巻である。それに比べたら人間が作った摩天楼、例えば新宿副都心などはほほえましいものである。現在では断崖絶壁からガラス張りの渡り廊下が造られていて、崖の真下を覗けるようになっていると聞く。私は断崖絶壁の縁で写真撮影をしたが、谷底までは東京タワー並みの高さのところもあった。私はケンシロウの気分を味わったが、友人は腰が抜けてしばらく立てなかった。その直後、パークレンジャーに叱られた。毎年、崖っぷちで写真撮影をして転落する観光客が数人いるとのこと。日本では信じがたい程に乾燥しているところなので、頑丈そうな岩場でも突然崩落することもある。別の場所だったが、実際、写真撮影直後にそれは起きた。数秒前まで立っていた崖の縁に収まっていた軽自動車大の岩が崩落した。これはさすがに怖かった。

 

 

 私は留学前に日本でグランドキャニオンの観光ガイドをしていたアメリカ人の山男に、普通の人は絶対に知ることができない場所にある秘密の場所の写真を見せてもらったことがある。その場所に行くにほ徒歩以外なく、しかも途中最低でも1泊しなければ行けないと言うことだった。観光シーズンにはかなりのにぎわいを見せるが、それ以外のシーズンでも観光客は多い。場所によっては真夏でも夜はかなりの冷え込みになる。当時は丁度バブルの頃だったためか、日本人観光客が非常に多かった。アメリカ人よりも多かったように思う。

 アリゾナで一番印象に残ったこと、と聞かれれば、私はためらうことなく「アメリカンネイティブ」と答えるだろう。グランドキャニオンはいわゆる「インディアン」たちの聖地であり、周囲にはインディアン居留地が数多くある。アリゾナに来るまでは、「インディアン」というのは、革のティピーに住み、馬に乗って、派手な羽根をたくさん付けて、奇声を発する連中だと思っていた。(多少は近代化されているとは思ったが)


 

 私が初めて「インディアン」なる人種を見たのは、グランドキャニオン国立公園にある土産屋だった。石で作られた塔の下にあるしゃれたショップに入り、しばらく商品を眺めていると、誰かが下品に怒鳴っている声が聞こえた。振り返ると多分支配人かオーナーとおぼしき背広を着たデブで中年の白人男性が、質素だが、きれいなケープのようなものを身にまとった小柄なインディアンの老女に向かって織物のようなものを手にして何かつばを飛ばしながら怒鳴っていた。その店の一角のコーナーには、特別にインディアンが手作りで作った本物の手芸製品があった。もちろん高い。そこに陳列する予定の商品について怒鳴っていたのだろう。男の話を良く聞くと、デザインとか納期とかが違うと言っていたようだった。その品のある老女はうつむいたまま、かすかにうなずき、謝っていた。その表情は多分死ぬまで忘れないだろう。瞬間的に煮えくりかえる気分だったが、店の中であったのと、英語がつたなかったため、黙って出ていき、無造作に駐車禁止の場所に止めている、奴のBMWにコカコーラを大量に注いだ。多分、彼が出てくる頃にはべとべとになったことだろう。今考えると「北斗柔破斬」を食らわせ、「キサマに今日、生きる資格はない!」と言ってやりたかった。

 

 

 グランドキャニオンにこれから行く人で、レンタカーを使う機会があれば、グランドキャニオン東部に位置するナヴァホインディアン居留地に行ってみると良い。私はそこに行く道中で信じられない光景を見た。夏の灼熱地獄とも呼べる中で、道路の脇に粗末な露店を開き、1日何人くるのか分からない客を待っていたのだ。露店は非常に粗末だった。ベニヤ板と角材に釘を打ちつけたもので、鉄パイプで作られた日本の露店の方が遙かにマシな造りだった。時折吹き付ける強風に、商品や露店を飛ばされまいと、必死に押さえつけるナヴァホたち、ぼんやりと、たばこを吹かしているナヴァホたち。しかも荒涼とした大地のど真ん中で、である。むろん観光地で観光シーズンだから人は来るだろう。だが、その姿があまりにも悲しく感じられた。すでに畳まれた露店や、バラバラになっている露店もあった。時折、真新しい角材などが風に流され道路に転がっていた。ベニヤ板にペンキで派手に描かれた「NAVAJO INDIAN」が哀しかった。今でも強く記憶している。

 

 

 一度、露店が数軒、軒を連ねている場所に止まった。彼らは色々と商品を説明してはくれるが、どれも粗末で安い作りだった。ビーズや木材、羽根飾りは明らかに工業製品。木は多分フィリピンなどから輸入したラワン材だろう。だいいち、こんな荒涼とした場所に大量の木があるはずない。見物していると偶然、仲介業者がワゴンで来た。どんな成り行きになるか多分に興味があったので、さりげなく見ていた。業者はやはり中年の白人男性で、ビーズや木片、派手に着色された羽根など、手芸品の材料がポリ袋に詰められたものを無造作に地面に置き、逆に完成品を車に入れる、納品書のようなものを書く。気味が悪いほど会話がない。インディアンたちは半ばあきらめ、半ば忍耐の表情だった。私の盗み見と表情に気付いた一人は、けなげにまた、商品の説明をし始めた。高齢者が多かったことを付け加えておく。

 

 

 途中インディアンの村を通った。キャラバンパークかプレハブ小屋が点在した貧しい村だった。電線も頼りないくらい細いものばかり。インディアン居留地について書かれた本の中に「こんな貧しい大地でも、彼らは土地を愛しているのだ。」という下りがあったが、私にはとうてい信じられなかった。だいいち、アメリカのほとんどのインディアン居留地はアメリカの大動脈たるインターステートと呼ばれる高速道路からかなり隔離されている。人目に付かないようにするためか、暴動時に交通の支障が出ないようにするためか。多分後者だろう。私が実際に目にしたインディアンたちの抵抗は、ナヴァホの村にあったレストランで、隣のテーブルにいた白人と同時に注文して、こちらの注文の方が早かったことぐらいだ。ちなみにそのレストランにいたその他大勢のインディアンたちは、部族の言葉を使っていた。私は心の中で強く声援を送った。

 

 

 モニュメントバレーで見たツアーガイドのインディアンたちのいでたちは正直悲惨だった。着ているものもツアー用の車もボロボロだった。また、客引きのための卑屈さも耐え難かった。当時私は彼らがどういう種族なのか、あまり予備知識はなかったが、それでも到底、卑屈さが似合う種族とは思えなかった。モニュメントバレーはナヴァホの聖地だという。彼らの神や先祖の霊がこれを見ていたらと思うと、胸が痛んだ。

アメリカ合衆国はアメリカ原住民たちに多大な保障をしていると言ってはばからない。だが、私が見た、インディアンたちは、皆、不幸な顔をしていた。インディアンたちは元来、古の日本のように、誇り高く、恩義に篤く、恥辱を忘れない部族である。しかし穏和で、無意味な争いは好まない。「カスター将軍と第7騎兵隊」の話はそれ以外のインディアンたちが、白人たちに何をされ続けたのかを隠すためのものでしかない。インディアン達が追われ、人口を減らし続けているのは、節操を曲げて栄えるよりも、自らのままのうちに世を去りたいと思っているような気がしてならない。通常、街中にインディアンを見かけることは少ない。彼らは比較的居留地に住んでいる事が多いためだ。


 

 留学中、寮にインディアンの男子学生が一人だけいた。日本人女性でもなかなか見つけられそうにないほどつややかな長い黒髪で、ハンサムだった。あまりよく話したことはなかったが、彼は何か芸術関係を学んでいるようだった。名前がルーベンスだったから最初は冗談かと思った。自分がいたカンザスは黒人差別がかなりあったから、そのインディアンの青年もどちらかというと控えめで白人学生とはやや距離を取っていたように思えるが、印象的だったのは大学に来たばかりの私の誕生日を学生新聞か何かで知り、部屋まで来て祝ってくれたことだった。その頃、もっと英語ができていたら色々話していたかも知れない。これは本当に残念でならなかった。

 人は大抵、二つの組織が争っている場合、単純に善悪で割り切りたくなる。だが現実には(どこの社会でも然り)それらが交錯しているばかりか、第三者から見ればどちらも悪になることも多くある。世の中では「絶対」でないことだけが「絶対」なのである。インディアンたちにとって、ワシントンもリンカーンも、ケネディでさえも英雄ではないことを訴えたいと考えている。


(第1回 Arizona完) 090608